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他人の家のことなんて知らないけど、
わたしの家族は結構変わっているとおもう。

A型のお父さん。
B型のお母さん。
O型のわたし。
AB型のいもうと。
B型のおとうと。

ちっちゃい頃、わたしだけAもBも入っていない血液型であることに、
捨て子じゃないかと本気で悩んでアルバムを引っかきまわしたこともあったが、
そんな謎は高校1年の生物の授業であっさり解明されたから、
ここではおいておく。
(思えば、苦手な生物のテストで点を取れたのは遺伝のとこだけだった。)

なんであえて血液型を書いたかといえば、
血液型がばらばらであることが、
性格も趣味・嗜好もてんでばらばらであることと関係があるはずだ、と
宗教のように信じている点が
わが家の家族全員のあいだでめずらしく一致しているからだ。
(例外は、おとうとはお母さんと血液型が一緒という点で、
 ひとくくりにB型を分析されることを嫌がっているところだ。)

本当にに変なところは山ほどあるのだけれど、
家族をこういうところであまりにさらし者にするのも気が引けるので、
少しだけ紹介したい。

まず、A型のお父さん。

一言でいうと、マイペース。というか天然。
この父の仕事の都合で、わが家はしょっちゅう引っ越しを繰り返してきた。
が、わたしの高校入学を機にそれもできなくなり、
さみしい単身赴任を繰り返すはめになり、
今は仙台で一人暮らしをしている。
でも、単身赴任をしてから、やけに饒舌になった気がする。
明らかに、昔よりいきいきしている。
太極拳を始めたり、果実酒作りに凝ったりしているらしい。
ちなみに、最新作のメロン酒は失敗したと笑っていた。
(メロンがもったいない。)

家に帰ってきて、夜中に酔っ払うと
起きている兄弟3人を相手に何度も同じ話をする。
話す回数が多い話ベスト3のひとつは、
「病気になって管だらけになって死んだり、
 ぼけたりして明日香たちに迷惑をかけるのは嫌だから、
 死ぬときは自分で死にたい」という話。
しかも、真冬にお酒をたんまり飲んで酔っ払い、
屋根かどこか高いところから、
雪が何メートルも積もっているところにサクッと落ちて、
酔っ払っているからそのまま寝てしまい、
凍死して死ぬという方法。
これは兄弟3人ともなかなかいい案だと認めているが、
そもそもそういうことを真剣に考えて、
何度も話す時点で少しずれている、と
わたしは思っている。

次に、B型のお母さん。

植物が好きで、自分が育てる植物を眺めることがとても幸せらしい。
そこまではいいが、興味がないのに、
延々と植物の特徴や健康状態を説明して、「庭に来て!見て!!」という。
若干、空気が読めない傾向があるので、
めんどくさいオーラを出していても気づかない。
兄弟3人で話し合った結果、
自分たちのように転校という厳しい状況を経験しなくて済んだので、
空気が読めなくともすくすく成長できたんだろう、という結論。
映画のストーリーも読めないので、
見ている途中で「これ、どういうこと?」と聞いてくるのだけは
やめてほしい。

よく友だちに言われるのは、「明るくておもしろいお母さんだね」。
病気のときは、本当にその明るさに救われた。
昔はがみがみ怒られて、
お仕置きで生のたまねぎを丸ごと1コ食べさせられたりしたが、
(今考えると、意味不明。たまねぎが余っていたのだろうか…)
前よりはやわらかくなった気がする。
キレたときは階段を音を立ててのぼったり、ドアを音を立てて閉めたり、と
精神年齢7歳並みの行動をとるが、
他人の悪口を決して言わないところと、
「いやなことは考えてもしょうがない」というポリシーは
見習いたいと思っている。

わたしに関しては、
自分では家族のなかで一番まともだと思っているけど、
そのへんは皆さんの判断にゆだねる。

なので、次に、AB型のいもうと。

AB型だからなのか、なんなのか原因不明だが、
とにかく変人。
小さい頃から、ものすごく頭がいいのだが、
その分、ひねくれてしまったように思われるところが多々見受けられる。
まず、自分だけ家族に愛されていないと思い込んでいる。
わたしは長女だから、
いもうとが生まれたときから見ていてよくわかるのだが、
それは断じて、ない。
わたしと似ず、目がくりくりしていて、
小さいころからかなりかわいがられていた。
一時は本気で家族を憎むほど、その思い込みに付きまとわれていた様子。

そして、自由人。とにかく思考が自由。
大学選びの基準もばらばらすぎてよくわからなかった。
最終的に、かなり偏差値の高い大学をけって、
リーガ・エスパニョーラを見たいという理由だけで、
海外留学が半年必修になっている大学にいって(スペイン語選考)、
スペインから帰ってきたら、
「サッカー見すぎて飽きた。なんであんなにスペイン行きたかったんだろ」
と言った。
今年の夏だけで、メキシコ、カンボジア、ペルーなどの一人旅を含み、
10ヶ所以上旅行に行くと言っていた。
(旅好き、しかもバックパッカーという点では気が合うらしい)
「何度も成田に行くのめんどくさいから、
 メキシコから成田に帰国したら、
 その日にカンボジアに行けるように日程変更しようかな。
 どうせ荷物いっしょだしね」
と、本気で言うほど、ストイックだ。

ちなみに、ひねくれているので、
わたし「マンガ貸して」
いもうと「いいよ」
わたし「どこに置いてある?」
いもうと「明日になったら貸してあげる」
わたし「自分で探すから、場所だけおしえて」
いもうと「明日になったらね」
わたし「今読みたい。おねがい」
いもうと「やだ。絶対だめ」
という理不尽な会話も展開される。やっぱりひねくれている。
でも、次の日になったらちゃんと貸してくれる。
よくわからない。

最後に、B型のおとうと。

5歳も年が離れているので、
小さい頃から、わたしは結構おとうとの面倒を見てきたと思う。
高校受験も大学受験のときも勉強計画をたてて、勉強を教えてあげたし、
今でも大学のレポートを手伝ったりしている。
(単にわたしがおせっかいな上に、
 おとうとはそれをしなければそれを一切放棄できる性格であることが由来している。)
そのせいかわからないが、なかなか仲もよい。

このおとうと曰く、いつも学校で
わたしといもうとの名前を出されて「優秀なおねえさんね」
といわれていたのが嫌だったらしく、あまり勉強ができない。
これもおとうと曰く「頭はいいけど、勉強しないから、できない」らしい。
その反動かわからないが、金を稼ぐセンスがある。
高校生のときから、ネットで数百万円稼いでいて、
大学生になった今では、その金を資金源に株を運用している。
だから、わたしのCOACHの財布はおとうとに買ってもらったものだし、
わたしがよく穿いているリーバイスレッドは実はおとうとので、
6,7万くらいするらしい。
(わたしが太っているときに穿きすぎたせいで、
 伸びて形が悪くなったからもういらないと言っている。)

いくらお金を持っていても、
趣味の服以外には、ほとんどお金を使わないことは
心底尊敬するが、
いつからか自分を欝だと言い張るようになり、
(家族から見れば、友だちも多いし、
 悩みも愚痴も言うし、いたって正常にみえる)
mixiで「死にたい、でも生きたい。」というコミュニティに入っているのは
ちょっと笑えた。
こないだわたしが、
「わたしも病気になってから無気力症候群だし、欝だよ」というと、
「明日香はポジティブな欝だけど、おれはネガティブな欝だから。」
と言っていた。
よくわからない。

少しだけ紹介するつもりだったのに、
ずいぶん長くなってしまった。

でも、最後にひとつだけ声を大にして言いたいのは、
わたしはこういう家族のみんなを結構すきだったりして、
この家族のあいだに生まれてきてよかったと思っていて、
そして、たぶん他の家族も少なからずそう思っているところだ。


なんで急にこんなことを書いたかというと、
ずっと見たかった映画「Little Miss Sunshine」のDVDを最近やっと見たからだ。


ほんとにすがすがしい映画だった。

わが家以上に、相当風変わりな家族の再生の物語。

独自の成功論を振りかざすが、裏切られ、破産の危機を抱える、父。
家族を嫌って、ニーチェを崇拝し沈黙を守る、兄。
ヘロイン中毒で、下ネタも何でも言いたい放題の、祖父。
失恋が原因で自殺を図った、ゲイの学者の、叔父。
ビューティー・クイーンを夢見る、ぽっちゃり体系の、娘。
そんな家族に疲れ果てつつ、必死でまとめようとする、母。

そんなばらばらの家族6人が、
娘オリーブの「リトル・ミス・サンシャイン」コンテスト出場のために、
カリフォルニアに向かう。



おんぼろでブレーキが利かない、
でもとってもハッピーな黄色の車体を持ったそのワゴンは、
どこかしら社会からはみ出してしまっている部分を抱える家族を
よく象徴している。

だから、彼らがそのワゴンを押しながら発車させる場面は、
ときに励ましたくもなり、
いじらしくもなり、
切なくもなり、
なんともほほえましくもある。

もう何度でも見たいシーンなのだ。



最後の最後に、
彼らが無事ワゴンを発車させて、
走りながら全員ワゴンに乗り込めたとき、
自然に涙が出た。

「ああ、こうやって人生は続いていくんだ」
と思った。

欠点があっても、
多少勘違いしていても、
社会とちょっとずれていても、
何度か失敗しても、
人は自分らしくあるのが一番で、
それさえ大切にしていれば、
人生は前に進んでいくのだ、と。

この映画はそれを、本当にすがすがしい表現で
さりげなく教えてくれる。


正しいこと、勝つこと、成功することが絶対とされる世の中だけど、
間違っていること、負けること、失敗することから
学び、得られる何かもきっといっぱいある。

だから、自分にだけは
うそをつかないで生きていこうと思う。

できれば、家族にもうそをつかないほうが
すてきなのかもしれない。

でも、それはたぶんむりだから、
(もうすでにたくさんのうそをついてきた気がする)
とにかく家族を大切にしたい。



最後に、もう一度だけ言うが、
わたしは自分の家族が
結構すきです。



前から不思議に思っていることがある。

なんでヘッドフォンはいつも
いつのまにか絡まってしまうんだろう。

バッグの中に入れたり、机の中に置いておいたりすると、
絶対と言っていいほど必ず、
ヘッドフォンに結び目がついている。
絡まらないように、
機体にぐるぐる巻きつけておいてもだめなのだ。

今日はとくにひどかった。
2,3ヶ所結び目がついていて
わけがわからないことになっている。

麻痺のせいで、
わたしの左手の親指と人差し指は
素直にいうことを聞かないので、
こうゆうときは本当に腹が立つ。

がんじがらめ、だ。

でも、いつのまにか理不尽に絡まったヘッドフォンも、
素直にいうことを聞かない左手の指も、
投げ出さずに
地道にゆっくりほどいていけば、
いつか元どおりになることを、
わたしは知っている。

そして、そうやってほどいたヘッドフォンで聞く音は
絡まったままで聞くヘッドフォンより、
いい音がする錯覚に陥ってしまうことさえある。


ヘッドフォンならまだいいけれど、
人は自分でも気づかないうちに、
(だから、それはときに理不尽と訳される)
ネガティブなことにがんじがらめになっていることがある。

それが、会社や学校での人間関係についてだったりするなら、
まだ抜け出す方法はおおいにあるように思う。

でも、それが生まれたときから背負っているもの
−例えば、肌の色や人種や、親の信条などを含む環境−
だったら、どうだろう。
生まれ持って背負っているその絡まりは、
きっと成長するにつれて
さらに深く絡まってゆく。


実話に基づく映画「フリーダム・ライターズ」を見た。


舞台は1994年、ロス暴動直後のロサンゼルス郊外。

わたし達には想像もできないようなものに
がんじがらめにされている、ウィルソン公立高校の生徒たち。


低所得者の多いこの地域では貧困による憎悪と犯罪がうずまき、
生徒たちは人種ごとに対立し、いがみ合っている。
白人、黒人、ラティーノ、東洋人…。


抱えている問題が大きすぎて、
きっと彼らは、
自分が果たして何にがんじがらめになっているのかも
わかっていない。

だが、エリンという新米の女教師が
彼らに変化の糧を与えていく。
それは、自分を見つめなおす1冊の日記帳、
そして、教育。

彼らは彼女に出会えたことで、
自分のしがらみを少しずつほどいていく・・・。


この映画は、ひとりのすばらしい教師が
生徒たちを変えていく話だと捉われがちだが、
実際はそうではないのではないかと思う。
教師と生徒が“ともに変わっていく”話だと思う。


“変化”というものが人に訪れるとき、
そこにあるのは
「(誰かを)変えた」とか「(誰かに)変えられた」という概念とは
少しちがうように思う。

そこにあるのは「変わる」という自動態である。
受動態では決してない。

変化するとき、
人は必ず何かしらに
きっかけや影響を受けていると思う。
それは、ある事柄であったり、人であったりさまざまだ。
でも、そこには、
「変わる」自分が常にいる。

「変わりたい」「変わろう」という“意志”がある。
それがなければ、“変化”はありえないのだ。


だから、この映画で描かれている話がすごいのは、
困難な状況にある生徒たちが
「変わろう」という意志を持っていたことだと思う。

それを引き出したエレン先生も、
そんな彼らから何かを得て、変化していると思う。

変化の相互作用は涙がでる。



一歩踏み出すことが、
ときにものすごく困難なことがある。

とくに、絡まりに絡まったしがらみなら
なおさらだ。

でも、「変わろう」という意志を
持ち続けられる自分でいたい。
そう思った。




『シーソーは、下におちる瞬間より
 上にあがる瞬間の方がおもしろい、とあたしは思う。
 上にあがるときは
 自分で地面を蹴るけれど、
 下におちるときは
 なんにもしないでおちちゃうから。』

江國香織 「神様のボート」より。



脊髄腫瘍になってから、
他人との間に距離感を感じるようになった。

「元気じゃん」と言われるたびに、
ざらざらした、明らかな違和感が押し寄せる。

彼らが本当に心配してくれていただろうことはよくわかる。
その気持ちはほんとにうれしかったし、
そうゆう応援に何度救われたかわからない。
心底感謝している。

でも、見た目が元気になると同時に、
見えない麻痺や痺れや痛みが、
どんどん他人との壁を厚くする。
痛いのに。
痺れてるのに。
動きづらいのに。
なんでわかってくれないんだろう。
ハンディが残っているのに、
それを理解してもらえない。
同情してほしいわけじゃない。
ただ、わかってくれればいいのに。

苦しかった。

それなら、もっとわかりやすく
大きなハンディが残った方がよかったなんて
本当に馬鹿なことを考えたこともある。

でも、病気と向き合った時間と比例して、
すごく大きな大前提に気づき始めた。

「自分と他人は圧倒的に違うこと。」

それはネガティブな意味ではない。

他人の苦しみを、悲しみを、喜びを、怒りを、
100%完璧にわかることなど絶対に不可能なのだ。

だからこそ、人は孤独を感じる。

でも、だからこそ、人は「分かり合いたい」と
思うのだろう。

そして、大事なことは、
わたし達は、たった一部でも、ほんの一瞬でも、
同じ想いを共感・共有できるときの
大きな大きな幸せを知っている。




ずっと見たかった「BABEL」を見た。
イニャリトゥ監督は「アモーレ・スペロス」「21g」ともに
大好きな監督だ。
彼が生まれ育ったメキシコを、
わたしもとても好きだという単純な理由だけではない。

彼の映画は、いつもとても秀逸だと思う。
彼は、映画の持つ力をよくわかっていて、
それを最大限に利用して、
とても大きなテーマを“表現”している。



ある友だちが卒論で、
写真は“点”で、映画は“線”だという論を展開していた。
映画のできた歴史から考えても、
映画が持つストーリー性からみても、
それは明らかだろう。

イニャリトゥ監督の映画を見ると、
その映画の力がよくわかる。



時間軸・空間軸を微妙にずらしながら、
複雑なストーリーを絶妙に展開していく。
そして、圧倒的な個性を持った映像と音楽の力。

そして、何よりタイトルに象徴されるような大きなテーマを
作品の主軸に選んでいることに、
映画の力を理解していることがよくわかる。



この映画の宣伝で流れる文章を引用する。

『神よ、これが天罰か。
 言葉が通じない。心も伝わらない。想いはどこにも届かない。
 かつて神の怒りに触れ、言葉を分かたれた人間たち。
 我々バベルの末裔は、永遠にわかり合う事ができないのか?
 モロッコの片隅で偶然放たれた一発の銃弾が
 アメリカ、メキシコ、日本の孤独な魂をつなぎ合わせてゆく。
 耳を澄ませば聞こえてくるはずだ。
 初めて世界に響く、魂の声が。
 2007年、世界はまだ変えられる。』




彼は作品の中で、無駄な“ことば”を使わない。

菊地凛子が演じる聾唖の女子高生チエコが、
理解してほしいと求めた刑事に渡した手紙の内容が
観客に示されなかったことが、
それをよく象徴していると思う。

旧約聖書にあるように、
人間は神に“ことば”を乱されたのかもしれない。

“ことば”は、人と人がわかり合うのに必要不可欠だ。

でも、逆に“ことば”が人と人がわかり合うことを邪魔することもある。

あえて、必要以上に“ことば”を見せないことで、
観客に考えさせる。
イニャリトゥ監督の作品は、そんな作品だ。

映画には、色々な種類があって、
ハリウッド映画のように、エンタテイメントとして、
観客を楽しませたり、興奮することを目的としていたり、
泣かせることを目的としていたりする作品もある。
そして、そんな作品には、明確にメッセージや答えがある。
観客はそれに納得したつもりになって、すっきりして帰る。

でも、イニャリトゥ監督の作品はそうではない。
感じさせる。考えさせる。

「BABEL」のラストシーンには、かすかな希望があるけれど、
そこから何を感じるかは、観客に任せている。

それが、本当の映画だ、とわたしは思う。

そして、もっとわたしたちは
“考えなければいけない”のではないか、とも思う。

差し出された答えに納得していただけでは、
本当の孤独は埋まらない。
答えを提示されることに慣れてしまうのは、
とても危険だ。

なぜなら、
自分と他人は、圧倒的に違うから。

でも、分かり合いたい。共感したい。

そして、わたしたちは
違いを乗り越えて分かり合えたときの
大きな喜びを知っている。



こうして、このタイミングで、
この映画に出会えたことを
とても、幸せだと思う。

そして、やっぱり思ったこと。

わたしもいつか映画が撮りたい。




世界はつくづくやっかいだな。

長いエンドロールを見ながら、
吉岡忍が「放熱の行方」に書いていた言葉を改めて思い出す。

『社会とか、世界というもののいちばんやっかいなところは、
 見えないところがあまりにも多いことだ、というのが私の考えてある。
 私たちが見たり、知ることができることなどは、
 ほんのわずかにすぎない。』


見えないのに、わたし達が思っている以上に、
世界は繋がっているのだ。

わたし達が婚約指輪でもらって喜ぶダイヤモンドにも、
わたしがまったく知らなかった衝撃の事実があった。

妹も、映画の趣味が合う友人も薦めていた
「BLOOD DIAMOND」をついに見た。



舞台は、内戦下のアフリカ、シエラレオネ共和国。

アフリカ、内戦…。
ニュースや新聞でよく見慣れたそれらのキーワードは、
悲惨だろうという想像はできるけれど、
わたし達とは遠くかけ離れたキーワードのように聞こえる。

けれど、それらの地域の武装勢力は、
どうやって必要な武器や兵器を調達しているかを知ると、
そんなことは言っていられない。



武装勢力は、その支配地域で採取した資源を
市場に流すことで、
重要な資金源を得ている。
その資源とは、アフリカでは象牙、石油、ゴールドなどであり、
そして、この映画に出てくる「紛争ダイヤモンド(ブラッド・ダイヤモンド)」である。

そして、不正なダイヤモンドを巡り、
紛争、強制労働、難民、子ども兵…という
重大な社会問題が連鎖していく。



映画上では、
元傭兵のダイヤ密売人にレオナルド・ディカプリオ、
家族を愛する漁師役にアフリカ出身のジャイモン・フンスー、
やり手のジャーナリストにジェニファー・コネリーが扮し、
それぞれ幻のピンク・ダイヤモンドに、
「自由」「家族」「真実」という異なる願いを求めて、
ストーリーが展開していく。

エンタテイメントの形でメッセージを伝える。
映画の意義をもうひとつ思い知らされた。



誰が正しくて、誰が間違っているか判別して、
悪を一掃すれば済む問題ではないことが、
2時間半の作品を通して、重くのしかかってくる。

それぞれに、それぞれの背景があり、
守るものがあり、望みがある。

この映画の中でも、
特に、ディカプリオが演じるダニーの変化は素晴らしい。
人にはいくつもの面があって、
人と人が向き合うことで
変わる要素があるんだって気づかされる。



それでは、何が人を狂わせるのだろうか。

わからないことばかりだ。
だけど、「知らない。わからない。関係ない。」
とは、言えない現実がそこにはある。

なぜなら、ダイヤモンドを喜んで買うわたし達先進国の消費者が、
ダイヤモンド紛争を加速させ、
どこかで人が殺され、
どこかで親と子が引き離され、
どこかで人を奴隷にさせる、一端を担っているからだ。



わたしがこの映画から学ぶことはなんだろう。

ひとつは、この映画を見て初めて知った
「キンバリー・プロセス」だろう。

キンバリー・プロセスとは、
非合法なダイアモンド取引を世界から一掃することを目的として、
ダイアモンドが国境を越える際には、
紛争とは関わりのない地域から採掘された石である事を政府が認定する
キンバリー・プロセス証明書を添え、
不正に開封できない容器を使用する事が定められている。
同時に、輸出はキンバリー・プロセス加盟国にだけ許可される。

この存在を知ることも、
消費者としては重要な義務だろう。


もう一度だけ、吉岡忍の言葉を借りる。

『難民たちが自分のことしか考えないばらばらの集合と言うなら、
 日本も世界もみんなそうではないか。
 日本も世界も、ますますそうなっていくだろう。
 そこでかろうじてつながることができる道筋を考えていくことが、
 私たち一人ひとりにとっての社会的営為というものだ。
 旗を振ったりスローガンを叫んだりする前に、
 脈略もなく散らばった現実をもっと深く認識し、
 そこから何ができるかを考えたほうがよい、と私は思っていた。』



わからないことばかりの中で、
ひとつだけ忘れてはならない気持ち。

人間が人間を狂わせ、悲しませる連鎖は
絶対に間違っている。



入社してから早5ヶ月。

「3時間寝ればとりあえず何とかなるだろう」
と、睡眠を削り、
「お腹に入れば同じだろう」
と、偏った食生活を繰り返しながら、
必死にここまできた。

どうやら、気づかないうちに
心身を削っていたらしい。

そして、突然の病気発覚。

こんな空白期間をもらえるなんて
思ってもいなかったので、
有り余った時間を持て余している。

そこで気づいたこと。

どうやら、気づかないうちに
色々なものを棄ててきてしまったらしい。

棄てたものを思い出すには時間がかかる。

時間の使い方を考える時間さえあるのだから、
とりあえず気の向くものから。
そう思って、映画と本を大量に借りてきた。

そんな中、出会ったすてきなことば。

『We can go anywhere.』

ジョニー・デップとレオナルド・ディカプリオが兄弟という、
今考えるとすごいキャスト陣の『ギルバート・グレイプ』より。

ジョニー・デップ演じるギルバートは様々なものに縛られて
身動きが取れない。

父を亡くして家族の大黒柱を失った家族から。
父を亡くしてショックのあまり病的に太って家から出られない母から。
知的障害を持つ弟から。
彼が縛られているものはあまりにも重い。

もうそれは一人ではどうにも変えられないしがらみで、
ギルバートの将来は灰色に思える。

自由な旅人ベッキーに、
『あなたの望みを思い浮かべて』
と尋ねられ、彼は言う。

『新しいものを。
 新しい家を僕の家族に。
 それからお袋にエアロビクスを。
 妹が大人になる事。
 アーニーに新しい脳を
 それから・・』

そこで、ベッキーは問う。
『自分は?
 自分の望みは?』

ギルバートの答え。
『I wanna be a good person』


切ない。
「いい人間」って果たしてなんだろう。
今のわたしはよくわからない。


しかし、ラスト。
ギルバートは自由になる。

『アーニーは“僕らはどこへ?”と
 僕は言った“どこへでも”
 “どこへでも”』



どこへでも行けること。
今のわたしもそうだ。
自分のからだの具合はこの際置いておく。
そうすると、わたしの選択肢は今無数に拡がっているように思う。

選択肢がある状況というのは幸せな反面、
実はとても『わたしがわたしでいること』を
要求されていると気づいた。

そもそも、わたしは何をしたいのか?
わたしはどこへ行きたいのか?
わたしは誰と会いたいのか?
わたしはどうなりたいのか?
色々な問いが迫ってくる。
それを『わたし』が一つ一つ解いていく。

レールに乗っていたら、
3時間しか寝ていなかったら、
決して解けなかった問いを解ける時間をもらった。

ゆっくり考えようと思う。

わたしは、今、どこへでも行ける。



 わたしの携帯の保存メールには、「見たい映画」ってのがあって、そこにいっぱい見たい映画のタイトルが書いてある。映画館で見たかったのに見そびれたやつがほとんどだ。ツタヤに行く度にその中から少しずつ借りていく。でも、見たい映画がありすぎて、しかも、それは雑誌を読んだり、ビデオの予告編を見たり、ツタヤに行く度にどんどん増えていくので、なかなか減らない。それで、昨日、その「見たい映画」の中の一本を見た。
 
 『25時』


 “俺に残された 最後の自由な24時間”

 麻薬所持の罪で7年の刑を受け、24時間後に収監されることになったモンティ。残された選択肢は3つ。収監、自殺、逃亡…。そして、モンティを演じるのはわたしが大好きなエドワード・ノートン!!残されたわずかな時間の中で揺れ動くこころを絶妙に演じてる。(ほんとにかっこよかった…。)そして、監督はスパイク・リー。彼らしく、最初は9.11のタワーの光線が夜空に投影される、夜景のシーンから始まり、映画中にも沢山9.11直後の複雑なNYを描写するシーンが出てくる。ストーリーに直接9.11が絡んでくるわけではないけれど、アメリカ、そしてNYの複雑さが色んなところで染み出してた。


 いつものように、心にひっかった台詞をいくつか。
 
 『我々は西へ向かう
  なぜ彼らはこの地に来たのか
  皆よそから逃げてきたのだ
  人生をやり直すために』

 『どこかで仕事を見付ける
  新しい人生を歩め
  二度と戻るな
  モンティ お前は人に好かれる
  才能だ
  まじめに働き
  目立たないようにしてこの街に溶け込め
  何があろうと お前はニューヨーカーだ
  骨の髄までニューヨーカー
  西部で生きようとも お前はニューヨーカー』

 『友だちや犬が恋しくても お前は負けない
  母さんの血筋だ
  強く生きていける
  昔の人生は忘れろ
  二度と戻るな
  電話や手紙もダメだ
  決して振り返るな
  新たな人生を築き 存分に生きろ
  約束されていたはずの人生を』

 『子供を作り 正しく育てろ
  ちゃんとした暮らしをさせてやるんだ
  そしていつか
  私が天国の母さんの元へ旅立った後
  全員を集め 真実を話してやれ
  お前は何者で どこから来たか
  すべて話してやれ
  そして言うのだ
  皆でこうしていることが
  いかに幸せか』

 『お前たちは…存在しなかったかもしれない
  この人生は 幻かもしれなかったのだ』

 こういう言葉を聞いて思い出すのは、去年のDM(ダンスサークル)の公演のテーマ。
 『Choice is yours』

 大きな局面にならないと気づかないけれど、わたしたちは無数の選択をして、今いる場所に立っているということ。それがひとつ違ったら全然違う場所にいるかもしれない。それをこの映画を見て改めて思い出した。

 だから、後悔しない選択をしたい。そのときの自分にベストな選択を。それは、後で振り返ったら間違ってるかもしれない。でも、わたしができることは、“今”自分にとって正しい選択をすること。そして、選択したら、まずはその道でベストを尽くすこと。



 前に聞いた、ガンジーが遺したことばを思い出した。

 『明日死ぬと思って生きなさい。
  永遠に生きると思って学びなさい。』



 「リリイ・シュシュのすべて」を久しぶりに見た。岩井俊二の作品はすごく好きなものとあんまり好きじゃないものと2種類あって、わたしが好きなのは、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」、「PiCNiC」、「スワロウテイル」、そしてこの「リリイ・シュシュのすべて」だ。この4本はたまに無性に見たくなってしまう。



 わたしが惹かれるのは、この作品の中にある“混沌”。残酷さと美しさ。繊細さと大胆さ。強さと儚さ。色んな要素が散りばめられてるのに、一本の作品の中に彼の世界がちゃんと確立されてる。そこがすばらしいと思う。そして、その世界観がわたしはなぜか好き。混沌を透明な何かで包んで、わたし達に触れやすくしてくれているような。


 “混沌”という言葉からわたしがまず思い出すのは、マニラに行ったときのこと。

 わたし達が泊まってたゲストハウス(安宿)に帰るために大通りを曲がったら、通りを一本間違えた。ゲストハウスがある通りは、他にも何件かゲストハウスが並んでたり、スタバがあったり、レストランがあったり、ゴーゴーバーがあったりして、タクシーなんかもいっぱい走っていてにぎやか。でも、間違って入ったその通りを見た時はショックを受けた。瓦礫で建てたような家々。汚れた服を着て遊んでいる裸足の子供たち。仕事がないのかふらふらしているおじさん。夜中に通ったら絶対危険だということを肌でぴりぴり感じるような通りだった。昼間でも怖くて、早足で歩いた。一本隔てただけで、こんなにも生活が違うという衝撃。

 騙されて連れて行かれた中国人墓地でもその衝撃を味わった。中国人墓地には、1軒の家のような豪華なお墓が並んでいて、お墓とお墓の間の道路も整備されている。中国人は休日になるとこのお墓でパーティーをするらしい。1つの墓室の中には、ミイラが入っているような大きな棺と、大統領のような肖像画と、きれいな花の山と、洗面所や台所までもがある。そして、その墓地は何本もの通りに並んでいて、ひとつの集落みたいになっている。そして、その豪華な集落の隣には、スラム街があるのだ。このお墓の何十倍、いや何百倍も汚い、すぐ壊れてしまいそうな家々。このお墓でパーティーをする彼らは、このスラム街を見て何も感じないのだろうか?スラム街の彼らは、この墓地をどう思っているのだろう?

 マニラだけじゃなく、この世界全部を上から見たら、きっとこんな風に混沌としているのだろうと思う。高級なブランド品を買って喜んでいる豊かな国の隣で、飢えに苦しんでいる貧しい国がある。花火を見て「きれい」と喜んでいる国の隣で、空から落ちてくる爆弾におびえている国がある。


 こないだ読んだ「放熱の行方」(吉岡忍著)の一説を思い出した。

 『それは、他者や異物を寄せつけない世界だった。私たちの外側に、まったく別の歴史的文脈で生き、ちがった論理と倫理で生きる人々がいること、その彼や彼女たちが安い賃金で働いた結果が、私たちの身のまわりの快適さや気持ちよさを支えているかもしれないことに、私たちの思いは及んでいなかった。』

 世界は“混沌”で溢れてると思う。でも、それに目を向けるのは痛いし、つらい。幸運な事に、わたしたちは、それらに目を向けなくても、普通に生きて、死ぬことができるところに住んでる。


 話は逸れてしまったけど、岩井俊二がこの「リリイ・シュシュのすべて」の中で描いた中学生の生きる世界もこんな世界なんじゃないかと思う。この映画の「14歳のリアル」ってコピーは、こんな意味を持ってるんじゃないかって感じた。

 自分の無力さがだんだん分かってきて、子供の頃持っていた夢が現実とはすごく遠いところにあるって気づき始める。行き場のない閉塞感。焦燥感。絶望感。そんな中で繰り返される、いじめ、万引き、援助交際、レイプ…。そして、そんな残虐な場面を描きながら、同時に、沖縄の自然を描いたり、ドビュッシーの音楽を流したり、田舎の美しい景色を描く。この映画はまさに“混沌”を鮮明に描き出していると思う。残酷さと美しさ。繊細さと大胆さ。強さと儚さ。どれも全て表裏一体なのだと感じた。

 自殺する直前に女の子が見た、カイトが飛ぶ空があんなにもきれいなのはなんでだろう。
 「カイトになりたい。空飛びたい。」
 そう言って、彼女は飛び降りた。 

 なんだか書いてて、また痛くなってきた。


 すごく痛くなるのに、なんでか何度も見てしまう映画だ。きっと、世界が“混沌”で溢れていることを忘れちゃだめだって無意識にどっかで感じてるのかもしれない。そして、その事実に目をつむることに慣れてしまわないように。



 毎日毎日わたしの周りには色んなことがあって、色んなことを感じて、色んなことを思って、でも、夜中にベッドで今日の1日を振り返ってみると「いつもの1日」だったなぁと感じてしまうこと。それが毎日繰り返されて、1ヶ月、1年、10年…そういう風に時が過ぎていってしまって、振り返った時に何も思い出せないのはこわいなぁと思う。そんなことから、このBLOGを書き始めたかどうかは忘れたけど(また忘れてる!)、こころの整理ができることや、自分の感じたことに誰かの反応があることや、あとで自分の行動や気持ちを思い出せることは、いいとこだなぁと思う。

 

 ということで、忘れないうちに、最近ビデオで見た「タイタンズを忘れない」という映画について。
   
 

 これは実話に基づいた映画だそうだ。1971年、バージニア州アレキサンドリアのある町で、白人の高校と黒人の高校が統合される。そして、アメフト・チームのタイタンズも白人と黒人が一緒にプレーすることになる。コーチも黒人。当たり前のようにうまくいかないチーム内。そして、混乱する町。

 だけど、コーチの力によってタイタンズの選手がだんだんまとまってく。コーチが合宿で南北戦争の決戦場に選手を連れて行って言う。

 『死者から学べ。』

 わたしが思っているよりずっとずっと黒人と白人の関係って難しいんだと思う。わたしが好きな「何でも見てやろう」(小田実著)って本の「黒と白のあいだ・南部での感想」ってところにも、同じ人間でありながら区別されている世界について書いてあった。そういう映画もたくさん見た。(アメリカン・ヒストリーXとか。)でも、わたし達が人種差別の本質を理解するのはなかなか難しい。だけど、この映画を見たら、肌の色の違いで憎しみ合うことは間違ってるんだってことはすごく理解できた。
 
 試合を勝ち進んでいくタイタンズが、町に住む人たちをどんどん巻き込んでいく。その様子が本当に気持ちよくて、涙が出る。ある選手が言う。

 『卒業したら 俺たち同じ町で暮らそう
  年とって 太って
  そしたら 黒人も白人も無くなる』

 憎しみ合ってた関係が信頼し合える関係になるのって、きっとすごく難しい。だけど、アメフトが、そしてアメフトを愛するタイタンズの選手が、その選手の姿を見た町の人たちが、その信頼関係を築いてく。

 最後に、流れる言葉に、すごくいい言葉があった。

 『それが憎しみになる前に、タイタンズを思い出すのです。』

この町では、今でもタイタンズが町のみんなに教えたことが生き続けてる。


 何かあったとき、思い出すものがある人はすごく強い。
 
 つらくなったときに思い出す言葉、けんかをした時に思い出すその人との思い出、逃げたくなったときに思い出す最初の志・・・挙げていったらきりがないけど、そんなものたちが人を強く、優しくするのだと思う。

 そんな大切な経験をこれからもたくさん積んでいこうと思った。



 「解夏」=禅宗の修行“雨安居”が終わる日。

 “雨安居”は、夏の90日間修行僧が庵に集まり、共同生活をしながら座禅をする修行。「解夏」に、この雨安居の修行を終えた僧たちは、この間に話し合った互いの“行”に対する捉え方、考え方、接し方の誤りを懺悔しあって、再び行脚へ旅立って行くそうだ。



 去年ちょこっと付き合った人と映画館で見て、ふたりで号泣した映画「解夏」が今日テレビで放送されてた。2回目だったけど、やっぱりよかった。美しい長崎の街並みの中で流れてくストーリーは、悲しくて、切なくて、でも、ラストは本当にやさしい。目がだんだん見えなくなっていく主人公と彼を支える恋人。大沢たかおと石田ゆりこはふたりとも大好き。またいっぱい泣いた。

 でも、わたしが今日、何より惹かれたのは「解夏」の意味。このタイトルに込められてるにすごく深い意味。

 目がだんだん見えなくなっていく主人公に、お坊さんが言う。人が恐れるのは何かを失う恐怖。失ってしまえば、その恐怖から解放される。その日が、あなたにとっての“解夏”だと。

 そのときになぜか涙が出た。なんでだかわからないけど、なつかしい光が見えた気がした。 
 
 “闇の中をさまよう苦しみから解き放たれ、ようやく探り当てた一筋の光を胸に自己を再生し、新しく出発する日”それが、この映画の“解夏”だ。

 この“解夏”について、わたしが想うとき、やっぱり浮かんでくるのは、大学1年のときだ。毎日、自分の生きてる意味がわからなくて、自分の首を絞めて、夜になっても寝れなくて、ろくに食べられなくて、闇の中をさまよってた。苦しかった。でも、視界が開けて、自分のやりたいこと、自分ができるかもしれないことの希望をみつけた時、わたしは一回死んで、生き返ったと思う。

 わたしがこんな真っ暗な状態に陥ったのは、わたしが自分でとったいろんな行動と外部の要因が絡み合って、こんがらかったからだ。でも、この主人公は違う。病気っていう逆らえないもののせいで、どんどん視界がぼやけていく。自分に原因が全然ない。なのに、闇の中に追い込まれていく。それはどんなにつらいことだろうと思う。そして、彼を愛する人のつらさも想像できない。自分が見えなくなる以上に胸が裂かれるような思いなんじゃないかな。

 だけど、ラストでやっぱりふたりは解放されたと思う。ふたりにとっての「解夏」に流れる音楽がまたたまらなかった。
 
 
 『その手をはなさないで 不安が過ぎ行くまで
  悲しみのほとりで出会った その暖かい手を

  さびしいと口にすれば 生きることは寂しい
  喜びと悲しみは 光と影のように いつでも寄り添うもの
  幸せと口にすれば 不幸せばかりがうつる
  何故かこの世に生まれ 迷いながらも生きる あなたに届くために

  あなたの存在だけが ほかの全てより秀でてる
  星や月や花や鳥や海や空よりも
  際立っていて いとおしくて 大切な人』
          さだまさし「たいせつなひと」より。

 この歌詞は、大切な人がいてくれる幸せとか、すてきな言葉がいっぱい散りばめられてる。だけど、わたしが一番共感したところは、
「何故かこの世に生まれ 迷いながらも生きる あなたに届くために」
ってところ。

 目が見えなくなることと比べたら比べものにならないかもしれないけど、でも、みんないっぱい悩みながら生きてる。特に今は人生のひとつの大きな節目で、毎日ほんとに苦しい。でも、苦しみながらも前に進んでいれば、誰にでも「解夏」は絶対訪れると思う。わたしはそれを1年の時に実感したし、だからこそ、今は、自分らしくもうひとつの“解夏”のために過ごせてるんじゃないかなって思う。



 それぞれの“光”が見えるまで。
  そのときにみんなで笑って旅立てるように。
               もうちょっとがんばろう。



 GWだっていうのに何の予定もなく、家にいても暑くていらいらするから、とりあえず電車に乗って出かけることにした。そしたら、すごくあったかい光景を見かけた。電車で通りすぎる、とある駅のとなりにある小さな公園。そこのベンチにおじいちゃんと孫が並んで座ってた。しかも、ふたりとも膝に手をおいて。その姿がなんとも微笑ましくて、ふたりで並んで電車を見送ってる姿がすごくやさしくて、なんだかほんとに癒された。

 行き先はさいたま新都心。今日はすごく暑いけど、風がすんごく気持ちいいことに気づいた。「去年の今頃もこんなにあったかかったっけ?」こうやって思う度に、わたしは日本に生まれてよかったなぁって思う。21年間とちょっとも生きてきて、毎年毎年四季の移り変わりには、新鮮な驚きがある。「こんなに寒かったっけ?」「こんなに早く桜咲いたっけ?」「こんなに暑かったっけ?」「こんなに台風来たっけ?」「こんなに涼しかったっけ?」…きっとこれからもこんな気持ちをいっぱい感じるんだと思うとなんだかうれしい。

 まずはTSUTAYAに行って、借りてたCDを返して、新たに映画を借りた。そして、カフェへ。本を読んだり、久々にSPIの勉強をしたりして、ゆっくりした時間を過ごす。カフェってなんだかつくづく不思議な空間だなぁって思う。何の目的もなくぼーっとしているおじさん。友だちとふたりで楽しそうにしゃべっているOL風のお姉さん。これから結婚の挨拶をしに行く話をしているカップル。わたしみたいに一人で本を読んでる男の子。なんかみんな別々のことをしてるんだけど、それぞれの時間は微妙に調和しあってる。カフェは何かをするためじゃなく、時間をつぶしたり、乾いたのどを潤したり、のんびりするために利用されることが多い。だから、時間が空間が、とてもおだやか。それがとても居心地がいい。居心地がよすぎてつい長居してしまった。カフェでの人間模様を観察するのはすごく楽しい。

 帰ってきたら、借りてきた「シザーハンズ」を見た。この映画は何度も何度も見てる大好きな作品のひとつ。T・バートン監督&ジョニー・デップコンビの名作!わたしはラブストーリーとかファンタジーとかあんまり好きじゃない。だけど、この作品だけは例外。ハサミの手を持ったエドワードの純粋なこころがある街にもたらす奇跡。哀しくて、切ないけど、でもやっぱりラストは泣いてしまう。
「彼が去ってから毎年雪が…」
ってシーンがほんとにきれい。



 だけど、久しぶりに見たら、このエドワードみたいな特異な人を見る街の人の目の変化が前に見た時よりも理解できて、すごく哀しかった。最初は、特異なエドワードはめずらしがられて街中の人から興味を持たれて、人気者になる。そして、純粋な彼を利用する人々。だけど、日がたつと、彼は、疎まれたり、興味を持たれなくなっていく。人の“飽きる”って行為はすごく哀しい。さらに、ひとつ事件があると、群がって騒ぎ立てる人々。今までの彼に対する態度が一変して、彼を追い詰めていく様子はほんとに嫌になるけど、きっとわたしも含めて誰しもが持ってる性質なのかもしれない。

 ラストはほんとに哀しい。だけど、すごく美しい。彼が街に雪を降らせるのは、きっと彼の優しさだと思った。彼はきっと街の人に自分を覚えていてほしかったんだろうと。ハサミの手のせいで一緒にいられなかったキムだけではなく、街の人にも何かを感じてほしかったんじゃないかな。今日は初めてそう感じた。繊細で純粋なエドワードにこころを洗われた夜でした。



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